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――松井さんの役者としての出発点は、何時どこでだったんですか?

 自分は九州・福岡の旅一座の子供として楽屋で産声を上げたんです。初舞台は0歳で、捨て子の役だった。このときから、役者になることは宿命だったのかもしれません。

 

――旅一座って、どんなものなんです?

 

 一座の芝居は時代劇が中心で、九州を中心に西日本各地の劇場や芝居小屋を廻っていました。両親や兄弟が中心になって成り立っていましたが、他にも駆け落ちしてきた訳ありの男女や女性関係の複雑な人など、とにかくいろんな人がいましたよ。血の繋がりがあろうが、なかろうが座員はみんなファミリーとして共同生活を送りながら一座の仕事に携わっていました。普通の家庭で育った人にはわからない、特殊な世界でしたね。

 

――松井さんは一座でも役者をやっていたんですか

 子供の頃は幕引きなどの雑用ばかりでした。

 

――学校は?

ほとんど行ってません。小中学校合わせて40数回も転校した上、一座の手伝いが優先でしたので授業も2時間目までしか受けさせてもらえなかったんです。給食を食べたこともなければ友達と遊んだこともなかった。

 

 

――不満を抱いたことは

 小学生の頃はそうでもなかったけど、中学に入って思春期を迎えると学校に行ってもクラスには溶け込めないし、勉強も全然わからない。ついには登校拒否になってしまったんです。そんな生活に疑問を抱き、中学卒業の日に一座を飛び出してしまった

 

――どこへ?

 夜汽車に乗って東京へ家出したんです。役者になると思っていた親の期待を裏切り、列車の中では一晩中泣き明かした。

 

――東京では何を始めたんですか

 

 歌舞伎町でホストになった(笑)。当時のホストクラブは今と違ってお店は生演奏が流れる優雅な雰囲気で、身だしなみにもうるさくチャラチャラした雰囲気はなかった。僕が勤めていたお店はホストだけでも100名以上いる、業界でも有名なホストクラブで、そこでナンバー5まで登りつめた。だけど、その代償として身体を壊し、生死に関わるような大病を患ったこともありました。ホストは3年程やりましたが、いろいろなお客さんと巡りあって、女性のあり方や気遣いなど多くのことを学ばせてもらいましたね。

 

 

――芝居の世界に戻るきっかけは?

 ある日、帝劇で森繁久弥さん主演の『屋根の上のヴァイオリン弾き』を観に行ったんです。そこで観た舞台は自分が育った一座とはすべてが違っていました。旅一座の世界では、お客さんは飲み食いしながら芝居を観るのが普通で、喧嘩する客も珍しくなかった。それが帝劇では千人を超える観客が音も立てずに芝居に見入っている。カルチャーショックでした。このとき自分もこんな大舞台に立ちたい、たくさんのお客さんの前で芝居をやりたいと強く思ったんです。カエルの子はカエルなんでしょうね。その後ホストをやめて九州に帰り一座に戻ったんです。役者を一から学び、誰にもできない女形、自分だけの女形を作ろうと頑張りました。

 

 

――若座長となり“肥後の杉良”とか“生きる博多人形”と言われ大変な人気だったとか

 旅一座などの大衆演劇の場合、おひねり(ご祝儀)がつきものなんです。お札で作った首飾りを頂いたり、多いときは3分間で500万円なんていうこともありました。でも、おひねりを頂くたびに、芝居が止まってしまうし、おひねりをたくさん頂いたお客さんの顔を見つけるとお金の計算をしてしまう自分がいる。このまま今のような芝居を続けていたらダメになると思った。そこでゼロからまたやり直そうと思い、再び東京に出てきたんです。

 

――どんな芝居を目指したんですか

 自分が育った一座とは違う芝居を作りたかった。おひねりとは無縁な舞台をね。でも、先立つものがなければ始まらない。そこで、金融機関を駈けずり回って2000万円を調達して、新聞広告で募った役者4人と共に「劇団誠」を旗揚げしたんです。25歳のときでした。

 

――船出は順風満帆だったんですか

 大衆演劇の世界には組合があって、そこに入れば仕事も貰えるんですが、大劇場進出を目指していた自分は完全なフリーの立場から始めたので最初の頃は仕事を貰うのも大変でした。お金の面でも、多額のお金を持ち逃げされたり、他人の借金の肩代わりをするハメになったり苦労は絶えなかったけど、そうしたいろいろな経験が今の自分を作っていると思います。

 

――その後、テレビドラマにも出演されようになるんですね。

 ずっと舞台で演じてきたので、映像の演技に慣れるまでは随分苦労しました。NHKの大河ドラマ『炎立つ』(97年)に出演したときのこと。本読みのときに、普段舞台で出しているように発声をしたら、共演者が一斉に振り向くんです。佐藤浩一さんが「テレビって、芝居しなくていいんですよ」とアドバイスをくれたんですが、芝居をしなくていいとはどういうことなのか意味がわからなくてね・・・。

 

――目標としていた大劇場に進出したのはいつだったんですか?

 初めての大劇場に立ったのは98年。帝劇で山田五十鈴さん主演の『花のうさぎ屋』でした。そして2000年に名古屋の中日劇場『権八小紫』で念願の大劇場の座長公演を実現させました。達成感より、一発屋では終わりたくなかったので、今後どう持続させていくか次のことばかり考えていた。大劇場の一番いい席は1万5000円ぐらいするんです。そこを常に埋めなきゃいけない。一枚看板で大劇場の座長を張るのは並大抵のことじゃない。一度観に来てくださったお客さんをもう一度劇場に足を向けさせる芝居をしなければダメなんです。

 

 

――役者として成功するには何が必要ですか?

 誰々さんみたいな役者になりたいと思ったところで、その人の真似ごとしかできない。ただうまい役者ならいっぱいいる。自分だけの色を持つことです!ウチの養成所(誠塾)で人を育てるときも上手いヘタは重視していません。評価するのは一生懸命さ、ひたむきさです。

 

――最後に今後の活動予定を教えて下さい。

 2月から劇団誠松井誠特別公演が始まります。二部構成の舞台で、一部は芝居『沓掛時次郎』で二部は松井誠のレビューになっています。一度観ていただければわかりますが、とにかく楽しい舞台ですよ。そして5月にはギリシャ悲劇『王女メディア』に挑戦します。自分を裏切った夫への見せしめに二人の幼子を殺してしまう王女メディアをどう演じられるのか、自分でも今から楽しみにしているんです。ぜひ劇場にお越しください。

 

 

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松井 誠

マツイ マコト

生年月日:1960年4月8日  血液型:A型  出身地:福岡県

1985年に劇団誠を旗揚げ以来、舞台・テレビ・歌・バラエティなど幅広い分野で活躍中。

2000年には中日劇場で、「旅役者」出身の役者一個人としては初めて大劇場の座長をつとめた。以降、大劇場の座長公演を精力的に行うと共に、自ら率いる劇団誠&下町かぶき組による「松井誠奮闘公演」(お芝居&レビュー)で、春秋2回の全国ツアーも行っている

過去の出演作

舞台

主演・座長公演  新歌舞伎座『乾いて候』(2007年)、明治座『江戸情話 さくら吹雪』(2007年)、新歌舞伎座『くらわんか』(2006年)、明治座『新・四谷怪談』(2006年)、御園座『−新章・美空ひばり―不死鳥伝説』(2006年) 他

客演  青山劇場『野獣郎見参』(2001年)、帝国劇場『花のうさぎ屋』(1998年) 他

シングル『火の鳥』、アルバム『誠ファースト』(BMGビクター)、シングル『あるがまま・・・』

(キング)、マキシシングル『夢にて候・誠のブラジル音頭・花結び』 他

<テレビドラマ>

NHK『風林火山』北条氏康役(2007年)、MBS『暖流』正岡隆司役(2007年)、NTV『科捜研の女2』(2000年)、TBS『水戸黄門』(1997〜1999年)、NHK『炎立つ』(1993年) 他

 

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