飾り 飾り
 
飾り犬と私(過去の私)[ 2005年04月05日〜2005年05月30日 ]飾り
このページの日記は日にち順に下へ並んでいます
 

平成17年4月5(火)

「犬と私」
No1故郷

 私は、井の頭公園の近くの産院で産まれた。私が5ヶ月の時、父、母、祖母そして2匹の犬(オコとタロ)は高幡不動の山の上に引っ越した。そこは東京とは思えない自然に囲まれた美しい所だった。近くには沢が流れ蛍が飛び、夜になると松の木がゴーッ、ザワザワと音を立てる。私は山鳴りの音を子守歌に育った。夜は近くに街灯も無かったので真の闇だ。彼方に、東京の夜景が瞬く、それを一望できた。生活の水も近所から引いてもらった記憶がある。もちろんお便所は汲み取り式、一度穴に落っこちて、ばれると叱られるので黙っていた。宮沢賢治の世界に郷愁を覚えるのはそんな環境のせいかもしれない。
 
 私は一人っ子。近所に同年代の子もいない。来客もない。今から考えると、あの世界は幻想の中のような気にもなる。現実から隔離された世界。当時、家族は崩壊していた。憎しみといつ爆発するかもしれない争い。ピリピリした空気が常に張りつめていた。そんな中で私は、無口な良い子だった。大人達の心の痛みを常に感じていると、“私は我慢、静かに良い子”。自然にそうなっていった。空想好き、頭の中でストーリーを作り上げその中で自由に生きる、そういう能力が育つには最高の環境だった気がする。それが、今、私が役を生きる事に、とても大きな力になっている。美しい自然、広い空、まわりには動物たちがいた。

 

 
 私は小さいときから、生き物が大好き。今は苦手だが、昆虫も好きだった。カタツムリを卵から返したり、青虫飼育日記を書いたり。カマキリの卵が、家の中でかえってしまい、天井から床まで赤ちゃんカマキリだらけになってしまった事もある。ヤゴを育てトンボになって空を飛んでいくのを眺めて、感動したり。おもちゃの代わりだったのかもしれない。でも、そのおもちゃ達はたくましく生きていた。初めて靴を履いて歩いたのも、多摩動物公園。毎週のように連れて行ってもらった。
 そして、心豊かな友達。オコとタロ。犬達は当然私が生まれる前から、家族だった。赤ん坊が初めて体験した犬生活。思い出深い彼らの事を次回書きたいと思う。

サイン
写真
「オコと私、庭から眺める外の世界」
 
 
 

平成17年4月10(日)

「犬と私」
No.2オコとタロ

 オコはメス犬。予防注射の後遺症で、時々おかしくなる。ひっくり返って泡を吹くときもあるし、雷が鳴ると動転して脱走することもあった。普段は優しい犬だった。その息子がタロだ。毛は真っ白で頭が良い子。鼻をヤブ蚊に刺され皮膚炎になって、おばあちゃんが硫黄を塗っていた。山のヤブ蚊は凄まじい、吸血鬼だ。二匹とも、庭に作った大きな犬小屋に住み庭中走り回って好きなところでウンコもしていた。昔ながらの飼い方だ。
 おばあちゃんは、動物好きだった。二匹の餌はゆでた笹身にしょうゆをちょっと垂らしておばあちゃんが毎日作る。笹身醤油の臭い、なつかしい。鍋で作って食器代わりにその鍋で食べさせていた。人間の食事もその鍋で作っていた。母はそれをちょっと嫌がっていた。おばあちゃんは植物を育てるのも大好きで、曲がった腰を叩きながら、一日中庭仕事をしていた。何も無かった土地に花が季節ごとに見事に咲き乱れる庭を造った。私も、穴掘りは大好きだった。自分の何倍もあるスコップを引きずって、犬と一緒に穴を掘る。おばあちゃんにはきっと良い迷惑だったに違いない。
 
 二匹は私が生まれる前から、当然家族だった。私は新参者。家族の注目と愛情を一心に受け、我が家のアイドルはタロから私に変わっていた。だからタロは私が、気に入らない。いくら私が「タロちゃん良い子」と頭をなでても、顔をのぞき込んでも一度も目を合わせない。全くの無視。それでも幼児牧子はタロを追いかける。良い迷惑だ!2歳ぐらいのおむつも取れないひよっこが、生意気に、頭なんかなでやがって!きっと頭に来ていただろうに。でも、私が小学生になる頃には、とても仲良しになっていた。

 

 
 ある時、オコが突然いなくなった。嵐の日だった。雷におびえたのか。どこを探してもいない。当時はまだ野犬もいた。群を作っていたこともある。襲われたのだろうか。探しても探しても、見つからなかった。その夜、タロは一晩中遠吠えをしていた。これが、犬との最初の別れだ。
 家から少し離れたところに、防空壕の穴があった。数年後、そこを埋め立てに来た工事の人から、穴の中に、犬の骨があったと聞いた。「きっとオコだ。オコは落ちたんだ」ショックだった。タロには聞こえていたのだろう。タロはもっとショックだったろうに。

サイン
写真
「オコと幼児牧子」
 
 
 

平成17年4月19(火)

「犬と私」
No.3 山の生活

 家から買い物に行くには、母に連れられて、20分程の転げ落ちる程急な坂道を上り下りし、トラックが猛スピードで通る歩道が無い川崎街道を抜け、電車に乗って豊田まで行っていた記憶がある。環境はよくても、利便性は皆無の場所だった。吉祥寺に住んでいた代々木育ちの母、バレリーナだった母が、自分のバレエ団を閉鎖し、世間から離れ私を育てる場所として、なぜあそこを選んだのか?最近何となく、分かってきた気がする。
 あの土地は、母にとっては理想郷だったのだろう。世間との関わりを極端に嫌った母は理想郷で私を育てた。5月生まれの私に、牧場で走り回る様な子になって欲しいと「牧子」と名付けた母。でも、現実は厳しかった。冬になれば、水を引いた水道管は氷り、夜中、山の中を懐中電灯一つで見て回らなければならず、家庭がうまく行かなければ、閉塞的環境は、地獄と化した。父は事業を興したばかりで、ほとんど家には帰らなかった。それでも、休みの日には、必ず私をどこかに連れて行ってくれた。
 
 私の故郷、は「高幡の山」なのだ。天国のような環境と、地獄のような状況。両面を併せ持っている。そして、私の心の中にもこの二つが未だに、脈々と息づいている。そして、未だにその悪夢が私を苦しめる。そこから脱出するためにも私は、今この日記を書いている。

 

 
 
 私の友達の動物たちは、たくさんいた。タロ、オコ、猫のニャゴ、チャボの白と黒、シマリス、兎。庭にやってくるコジュケイ達は子連れで山から下りて庭で砂浴びだ。彼らと心で会話をした。彼らとの会話は楽しかった。決して心を脅かされることはなかった。唯一の安らぎだった。
 
 次回から、少し動物から離れたお話、幼児マキコの話を書こうと思う。

サイン
 
写真
「母と私とオコ」
 
 
 

平成17年4月26(火)

「犬と私」 No.4

   外の世界とのつながりが一切無かった私にとって、人間社会は母と父と祖母、この3人だけだった。私は寡黙だったが、いつも、大人達の心を見ていた。崩壊していた家族。憎しみ、怒鳴り合い、絶望。そして、つらかったのは4人がそろう食卓だった。誰も一言も口を開かず、黙って食べた。
 思ったことは口にせず、口にすればまた戦場になることは誰もがわかっていたから。心に鉛があるみたいだった。ご飯の味もよくわからなかった。父がいる日は、テレビからは相撲の放送か、野球の放送が流れていた。誰もがみんな傷ついていた。
 
 4才の頃、昼間台所で母と祖母が、父の悪口を言い合うのを聞いた。とてもイヤな気持ちになった。幼児マキコは帰ってきた父に、そっと打ち明けた。それが元で凄まじい戦いになった。
 母と二人になった時、母は冷たく「二度と言いつけるんじゃない」と私を叱った。“私のせいで喧嘩になった。私がしゃべったせいで。”ものすごくショックだった。罪悪感を感じた。そしてその日から、私は人間社会に対して決して口を開かないようになった。どんなに心が痛くても、何を思っても、心の中にしまい込むんだ、そうなっていった。
 
 当時はまだ離婚ってなんなのかはわかっていなかった。父はなぜ帰らないのか、なぜ毎日いないのか?我慢していたが時々母に質問した。“何でパパは帰ってこないの?”そんな時母は、いつになく穏やかに優しく“パパはお仕事で当分帰れないのよ”と答えた。いつもの母と余りにも違いとても嘘っぽかった。

 

 
 
 
 何も無い山の上で女3人暮らしていた。母は傷ついていた。当時の母を思い出すと、いつも、イライラし、何かあれば駅員さんや店員さんを怒鳴りつけたり爆発すると手が付けられなかった。私は見ていられなかった。私は母の心のトゲを抜いてあげたかった。せめて私だけは、母の望む良い子になろう、母の心を助けようと思った。

サイン
 
写真
「おばあちゃんと私、左にはタロがいる」
 
 
 

平成17年5月3(火)

「犬と私」
No.5 幼児マキコ2

 5才の夏だった。私は父と関西旅行に出かけた。いつも家にいない父とたった二人で。毎日私をガードしていた母がいない初めての時間。不思議でそして楽しかった。奈良のシカ達と遊び、大阪万博に行った。猛暑でバタバタと人が倒れ、岡本太郎の太陽の塔の下では、救急車が何台も走りぬけていった。
 ロボット館で遊んでいて、私は迷子になった。混雑している館内で父の姿を必死で探した。そして父をやっと見つけた!私は嬉しくて、後ろ姿で立っていた父のお尻をイヤっと言うほどぶったたいた。父は飛び上がり、振り返った。ギョ〜!それは全然違うおじさんだった!唖然としたおじさんの顔、今でも忘れない。
 私はくるっと向きを変え、人混みの中に逃げ込んだ。そこになんにも気づかずロボットで遊んでる父がいた。「牧子、これ面白いぞ〜」。今思えば、父は私との関西旅行を、離婚する前の「私との最後の思い出」にしようとしていたのではないだろうか。
 
 父もまた、苦しんでいた。父は外向的な人間だ。悩みがあれば、幼児の私を連れて親戚の家に家庭問題を相談しに行ったり、(私は、大人達の会話が聞こえない振りをしていた)また御理解ある御友人には悩みを打ち明けることが出来たと思う。
問題は、幼児マキコだった。“くるしい、悲しい”と一言も人に伝える事が出来ない状況だった。感情は、ますます心の奥に向かっていった。

 

 
 
 小学校1年のお絵かきの授業。みんなはカラフルな絵をノビノビ書いていた。私は、黒いクレヨンで、大きな画用紙の真ん中に小さな小鳥をたった一羽描いた。それはたぶん自分の姿だった。異様な絵だった。担任の菊池先生は、その絵をみて母親を呼んだ。「何かご家庭に問題があるのではないですか?」母は、逆上した。手が付けられないほど。徹底的に先生が悪者にされていた。私はまた、無口になった。
 
 私達3人の家族で良い思い出が一つだけある。唯一私が不安を感じず、心から笑顔を取り戻した2週間が・・・。

サイン
 
写真
「奈良のシカとマキコ」
 
 
 

平成17年5月9(月)

「犬と私」
No.6 幼児マキコ3

 家を出ていった父、そんな両親の間に復縁の予感があった。祖母は、父が家に残していった服を庭で燃やしながら「あの男の所に行くのか」と怒鳴った。すごい剣幕だった。母は私に聞いた。「牧子はパパに会いに行きたい?」私は心からパパに会いたかった。でも、6才の私には本心を口にする事は出来なかった。炎とそれに照らされる祖母の顔、私が出来たことは誰の顔も見ないまま、下を向いて一言「マキコは行かない」とつぶやく事だった。そんな私の姿を見て、母は私を連れて父に会いに行った。
 
 私が、子供らしい心を取り戻した時間がある。それは小学校2年生の夏休みの事だ。両親は別居していた。父は八幡山のアパートに住んでいた。だが、両親はもう一度3人でやり直す決心をしたのだった。夏休みに、父の住んでいた狭い狭いアパートに遊びに行き2週間3人一緒に過ごした。幸せだった。母に笑顔が戻った。私は、生まれて初めて胸が苦しくなく呼吸できるのを感じた。
 
 ある晩父が微熱を出した。風邪薬を探しに見知らぬ街を母と手をつないで、開いている薬局を探して歩いた。そんな一瞬が楽しかった。すべてが新しく見えた。
アパートの前には野原があった。日が沈んでもその野原を駆け回った。夕食の時間には母が私を呼んだ。私は1年生の男の子と友達になった。長い棒の先に糸を垂らしそこにカマキリの死骸を結びつけ、男の子が嫌いだった気取った女の子を脅かしたり。蜂の巣を観察したり。蜂の巣に石を投げつけようとしたその子を私は慌てて止めた。それでも、実行すると言うので私はそこから逃げ出した。都会っ子は自然の怖さを知らないから困る。

 


 
 
 お寿司屋さんの娘とも友達になった。彼女と追いかけごっこをしていて、夢中で逃げていた私は、お寿司屋さんの配達のバイクに轢かれそうになった。配達のお兄さんに怒鳴られた。私にとって初めての外の世界。そして、日常に怯える事のない初めての幸せだった。こんな毎日がずーっと続いたら・・・。そう思う。
 お互いに思いやる心、安らぎ、楽しい食事、それが続けば、私の心の闇も消えただろう。でも、現実はそうやさしくはない。
 
 小学校2年の夏休み。私にとって唯一の楽しかった家族の思い出、宝物になった。

 
サイン
 
写真
「高幡の山を歩く、父と私」
 
 
 

平成17年5月16(月)

「犬と私」 No.7 秘密の場所

 高幡の山で忘れられない美しい景色がいくつもある。幼い頃の遊び場で、誰もが経験があるのではないだろうか。お気に入りの場所を見つけ、そこを「秘密の場所」と呼ぶ事。活動的な友達に連れられて、百草園のまわりを探険に出かけた。
 突然現れる切り立った崖、山奥には蜂蜜を取っているおじさんがいた。棒で草をかき分け進む時、友達は一匹の蜂をぶってしまった。怒った蜂は私を猛烈な勢いで追いかけてきた。どこまで逃げても襲いかかってくる。(ぶったのは私じゃないのについに私は蜂に刺された。スズメバチじゃなくてよかった〜)
 田んぼにはドジョウや沢ガニがいて、私は一度だけ白蛇と出会うことが出来た。その話をしても誰も信じてくれなかったが。畑でジャガイモを失敬したり、神社の境内のお賽銭箱の五円玉を拾い、灯籠の中に隠したり。小学1年生の私にとっては大冒険だ。
 夕方になると、空が赤い。夕焼けではなく、赤とんぼの大群だった。誰にも邪魔されない、私達の秘密の場所にしようと友達と約束した。写真に残っていなくても、こういう景色はまるで絵はがきのように脳裏に焼き付いている。
 
 アリが戦争をするってご存じだろうか?違う種族のアリ達は戦争をする。その後は、山がアリの死骸で真っ黒になるのだ。アリはどう猛な昆虫だ。血がしたたれば、臭いをかぎつけ集まってくる。アリは引っ越しもする。その時は自分たちの卵もかかえて一列になって移動していく。私は童話の中に出てくる「働き者で砂糖が大好きな優しいアリさん」は信じていなかった。

 


 
 私はアリが大嫌いだった。飼っていた鯉がバケツから飛び出して、全身アリに食われても、鯉はしばらく頑張って生きていた。口からエラからアリが出てきた。その後、鯉は死んだ。私はアリへの復讐を始めた。アリの引っ越しの時は働き蟻を殺し、卵を略奪。蚊取り線香でアリを焼き殺すと、おなかがバンっと破裂した。
 
 私の故郷、「高幡の山」の生活は小学3年生までで終わった。その後は父、母、私の3人で、府中に引っ越しをした。新しいスタートを切るために。

 
サイン
 
写真
「雪の高幡の庭、おばあちゃんは雪かき、百草園まで真っ白だ」
 

 
 

「犬と私」 No.8 救世主、リタ!

 幼児体験はその人の人格に多大な影響力を与える。大人になってからも、テレビから流れる相撲や野球のゲームの音を聞いていると、私は具合が悪くなった。つい最近まで理由はわからなかった。それがあの「沈黙の夕食でのテレビの音」から来ているとは。
 幼い頃の私は、故郷で動物たち自然から、純粋な心を教わった。でも、人間社会の中では、本当の自分の言葉を失ってしまった。いつも、相手の心の動きを読みとり、相手が望む答えを言う事しか出来なくなっていた。まわりから見れば「とっても良い子」だ。今は随分良くなってきたが、それでも時々、そう、本当は自分がどうしたいのか懸命に心の中で探さないと、自分の気持ちが見つからない時がある。“好き嫌いもはっきりしていて、明るく自由奔放なバイタリティーにあふれる富本牧子”というイメージを持たれている方は信じられないかもしれないが、実は両方とも、私なのだ。
 
 子供の私は、何か違った形で、自己表現したいという欲求が自然に芽生えていたように思う。それが、今私が「役をいきる」女優という仕事に結びついていった。ドラマを通して役を生きる事で、私は現実にも生きる事が出来る様になった。役が私の視野を広げ、自分を育ててくれたのだった。
 この答えが見つかったのは、もちろん初めからではなかった。「リタの教育」に出会い、演じた1997年、私はめいっぱいで本当にこの役を自分が出来るのか、分からなかった。役者としての自分の壁も見えていた。心の中の厚い壁、人に本当の自分を見せることが出来ない。
 “リタを演じるには、心の鎧戸を壊さない限り、観客の心には届かない”はっきりそう思った。鎧戸の奥には、故郷高幡の山にいた臆病だけれど、ピュアな私が隠れていた。「これが本当の私。でも誰にも姿を見せられない。」しかし、稽古が進むにつれ、私の中で成長したバイタリティーあふれるリタは、さび付いた鎧戸を壊し、中から本当の私、幼児のマキコを連れだしてくれた。

 


 
 私は本当に、リタに感謝している。私の中で問題が解決したわけではないけれど、この大きな人生の問題に気付かせてくれた。
 今秋再びリタを演じる。初演から8年、以前とは変わった今の自分がリタを生きたら、どう変わるのか、とても怖くてとても楽しみだ。

 
サイン
 
写真
「幼児リタ」
 

 
 

「犬と私」 No.9 タロ

 小学校の卒業アルバム、「将来の夢」に私は“女優”とは書いていない。“ステュワーデス”や“お嫁さん”と書く子もいたかもしれない。私は“アフリカに行って野生動物の研究家になる。あるいは警察犬の訓練士”と書いた。
 テレビで放送していた「野生の王国」を食い入るように見つめ、シートンの動物記が私の愛読書。特に「オオカミ王ロボ」は忘れられない。少し軽めの所ではテレビで放送された「刑事犬カール」にあこがれた。
 オオカミに心ひかれ、動物園の檻に閉じこめられた動物たちを見て、心痛めていた。犬の中ではシェパードが大好きだった。シェパードが20匹ぐらい飼える広い広い牧場の様なところに住み、そこで犬と一緒に走り回る自分を想像した。
 中学1年生の時には多摩動物園のキリンきゅう舎を訪ねて、「どうしたら飼育係になれますか?」と質問し飼育係のお兄さんを困らせた。動物を愛していた私だが、一度も“獣医さんになりたい”と思った事は無かった。高校の同級生が獣医になった。同窓会で彼女に会ったときに、“牛の肛門に腕をひじまで突っ込んだ話”を聞いて卒倒しそうになった。私は、そんな子だった。
 
 当時私達父、母、私は東府中駅の真ん前にあるマンションに引っ越していた。山奥の生活から一変した。駅には徒歩30秒、1階には大型スーパーがあった。当時はハムスター、迷子のカナリヤを飼っていた。大國多摩神社で「これはミニウサギ、大きくならないよ」と言っておじさんから買ったウサギは、巨大ウサギに成長していた。

 


 
 小学校4年のある夕方、塾に行く準備をしていた私は突然、まわりが白いベール包まれ、変な気分に襲われた。「なんか変だ。いやな感じだ」その場にうずくまってしまった。母は「いやね、事故に気を付けて」そう言われ、家を出た。
 翌日、高幡の山にいるおばあちゃんから電話が入った。「きのうタロが死んだ。お庭に埋めたよ」と。私がうずくまった時間と全く同じだった。幼い頃、私を無視していたタロ、でも私が少し大きくなるととても仲良しになった。会いに来てくれたんだ。そう思う。タロ。私の「犬というイメージ」に一番近い子だった。一番最初に好きになった犬かもしれない。16歳半。人間で言えば 90歳近い犬生だった。

 
サイン
 
写真
「タロと私、高幡の庭で」
 

 
 

平成17年5月23(月)

「犬と私」 No.10 ルッキー

 中学の受験も終わり私は桐朋女子学園普通科に入学した。入学のお祝いに犬を買ってくれることになった。
 新宿のガードをくぐると、犬屋さんがある。そう、今もある。ペットショップじゃなくて犬屋さん。そこで、ペキニューズにまたがって暴れている元気なポメラニアンに出会った。コロコロでまるでぬいぐるみ。可愛かった。
 この子は、うちの子になった。女の子。目をじーっと見つめるので“ルッキー”と命名。一家はマンションから東府中の一軒家に引っ越していた。山暮らしがきつくなったおばあちゃんも一緒に住み始めた。
 
 家族間の戦いは、最悪な状況は脱したが、本質は変わらなかった。ただ私は閉鎖的環境からは脱することが出来、外の世界で生きられるようになっていた。ただ、母親の理想である娘像から出ることは決してしなかった。
 考えれば犬の室内飼いは初めてだった。新聞紙の上で用を済ませる。今のようにトイレシートなどない。「子犬の育て方」の本を買って読み、子犬のトイレトレーニングを始めた。
 当時の本にはこう書かれている。「トイレを失敗したときは、鼻をこすりつけて目をジッと睨み付け叱りましょう。新聞紙を丸めて、床を叩きましょう。」現代でも、そう書いてあるサイトや、本もある。これはオドロキだ!

 


 
 今から考えれば、狂気の沙汰だ!でも、中1の私はその通りに実行した。ルッキーは排泄するたびに怒られた。そして人が居ないときに、隠れウンコ、隠れオシッコを家中にすることとなる。そして、また怒られる、丸めた新聞紙を見ると怯えまくる。そんな状態なのに新聞紙の上で用が足せるわけがない。本当に可哀想なことをしたと思う。何であんな事が常識のようになっていたのか?
 
 東府中はギャンブルの街、そう競馬場がある。土日にはおじさん達であふれかえる。ギャンブル独特の臭いの街。競馬場のまわりには、大きな駐車場がいくつもあった。そこでルッキーと走りまわった。
 ルッキーが5才ぐらいだったろうか。思い切り私に向かって走ってくる時に、ルーキーの顔が真っ青になった。そして、よろめいた。毛皮があるのに、その上からはっきりわかったのだから、相当のことだった。今ならすぐ精密検査も出来たろう。その時は考えもしなかった。ちょっと休ませて、治ったので気にしなかった。

 
サイン
 

 
 

「犬と私」 No.11 ルッキー2

 中学生。明るい校風のおかげもあり、私は外の世界にやっと夢中になれるようになった。先日同窓会で、小学校から高校生までの私を知る友人に、言われた。「トミは、中学になってから豹変した!おとなしくて超優等生から、目立つ存在に変身したよね〜。なんであんなに変わったの?」中学入学当時はさめた子だった。
 でも、学校生活を楽しませてくれる校風なら、自分も思いっきり楽しもう!私は変わる!と心に決めた。中学時代からの友人は、“私は明るく活動家、学校行事でも必ず顔を出す、超積極的人間”と思っている。みんなが集まる会があれば、自分でパロディーの台本を書き、みんなを集めて自分が主役をやり、それが大受けだった。
 でも、心の中の闇は常に存在していた。友人に「結婚は人生の墓場だよ。」とつぶやく子だった。「結婚」と聞いただけで吐き気がした。余りにも価値観の違う両親は、争いを続けながら、何故離婚しないのか、理解できなかった。おまえのためだったと言われても、私は嬉しくない。自分たちの信じる人生を生きて欲しかった。
 
 我が家の犬ルッキーは、母と一心同体行動を共にするようになった。その頃は子犬の社会化の時期の大切さなぞ、聞いたことも無かった。そう、犬は青年期を迎える月齢3〜4ヶ月頃までで、その犬が環境をどう受け入れる事が出来るかが決まるのだ。まさにこの時期が勝負!犬の一生が決まると言っても大げさではない。
 そしてルッキーは、私の幼児期のように、人にも一切会わず他の犬とも一度も接する事なく、社会性がまるでない犬になっていった。普段はとてもカワイイ子だったが、やがて、シャンプーすれば噛む、ブラシをすれば噛む、13歳で死ぬ直前にも、獣医さんに噛みつく犬になってしまった。
 
 ルッキーと暮らして、小型の愛玩犬は、犬というより愛玩する動物という印象が強くなった。そして、小型犬は噛む子が多いのではないかと、私は思うようになってしまった。

 


 
 13才になったルッキーは具合が悪くなった。心臓だった。獣医さんによれば、昔から持病を持っていたと言われた。走って顔が真っ青になったのはそのせいだった。具合が悪くなり食事がとれなくなった時、獣医さんは栄養価の高いペーストを処方してくれた。そのペーストを舐めさせようとした獣医さんの手にも噛みついた。死ぬ3日前だった。
 
 犬のしつけやトレーニングの方法は、この十年で激変している。やっと誉めるしつけが主流になり、犬と一緒に入れるお店も増えてきた。時代は欧米化、遅れていた分野が開け始めた。飼い主達も、新しいしつけを待ち望んでいた。みんな「なんか変?」と思いながらどうしたら良いのかと心痛めていた人も多い。そんな飼い主達は、今、乾いたのどを潤すように、勉強熱心だ。私も同じ。ルッキーには可哀想なことをした。みんなに愛される犬になれたのに・・・。今まで飼った犬達の事を考えると、いつもそんな気持ちになる。ゴメンねルッキー。

 
サイン
 
写真
「晩年のルッキー」
 

 
 

「犬と私」 No.12 ゴン

 私はゴンの話を書く、自信がない。写真を見る自信もない。今、私はペットロスから立ち直っていない。テオとこんなに幸せな時間を過ごしても、ゴンの事は、まだ私には辛すぎる。テオをお腹の上に乗せ、ソファーで幸せな昼寝の時間を送っている時にも、夢を見る。
 『ゴンが私の横を通り過ぎ、庭にひとりで出ていく。私はいつもしていたように、ゴンにおんぶをして抱きしめる。伝わらない言葉でも「ゴン、I LOVE YOU・信じて欲しい」と心に念じる。ゴンは私とテオが眠る横を寂しげに通り過ぎ、玄関から静かに出ていった。』目が覚めて、私は泣いた。
 
 ゴールデンレトリバーのゴン。初めて飼った大型犬だ。昨年の9月にゴンは息を引き取った。奇しくも、テオは同じ9月に誕生した。私はロンドンに滞在していた。ホテルで夢を見た。ゴンに悪いことが起こった夢。誰にも聞かなくても私にはわかった。ゴンが死んだことを。
 ロンドンから帰宅し、たまっていたメールを読んだ。そこには父からのメール「ゴンの死」と待ちに待っていたブリーダーさんからのメール「生まれましたよ!」の二つが並んでいた。生命の誕生と死、私は同じ日にこの二つの知らせを受けた。混乱、悲しみ、子犬の写真を見て笑いながら泣き崩れた。
 
 私はゴンの晩年の1年半、会うことが出来なかった。最後に看病してやることも、抱きしめることも、いつものように頭の出っ張りにキスしてやることも出来なかった。私は一生この事を悲しむ。私の一番大事な世界、犬との会話をすることが出来なかった。

 


 
 それを奪ったのは、また、家族のいざこざだった。母は、今まで世間や親戚を閉め出した時と同じ様に、今度は、私と会うことを拒絶し、実家に帰ることも、拒絶した。もちろんゴンと会うことも。

 
サイン
 
写真
「ゴンと私」
 

 
 

平成17年5月30(月)

「犬と私」 No.13 告白1

 犬と自分を語るとき、必ず家族の問題が絡んでくる。それは当たり前かもしれない。犬は、家族と一緒に生活する仲間なのだから。ただ、私の場合、それが爽やかにサラッと行くことがなかった。
 
 私はAC(アダルト・チルドレン)だ。今、初めて告白する。ACとは、大人になれない人ではない。大人になっても、非常に抑圧を受けた子供時代を心の中で封印してしまったため、成長を止めたインナーチャイルドが苦しみ続ける状態を言う。
 自分で全く気がつかない場合が多い。だが世の中に適応しにくい自分を自覚している。離婚結婚を繰り返す人、原因不明の身体の不調(頭痛や不眠、自律神経失調症など)、そして胸の奥に渦巻く嵐が突然暴れ出し人を怒鳴りつけたり、どんなに努力して結果を出しても虚無感に襲われ、すべて悪いことは自分のせいで起こったという自意識過剰に陥り・・様々な症状を起こす。
 そして共通しているのが、『抑圧された原爆のような怒りと悲しみを心の奥底に持ち、それが何故なのか分からず、自分の中で不自然さを感じている』と言うことだ。現実社会の中で平衡感覚をつかめず闇の中に真っ逆様に落ちていく恐怖感を持ち続ける。「負の要素」に心のエネルギーの大半を使い尽くしてしまう。ミドルエイジになって、初めて気づく場合も多い。

 


 
 ACは病気ではない。語源はアルコール依存症の家庭に育った子供から来ている。それ以外にも、幼児虐待や性的虐待を受けた子供、家庭機能不全の家族に育った子供達が大人になっても、現実生活に非常な生きにくさを感じ、また受けた傷はそれぞれ違っても、全く似た身体や心の苦しみ、行動パターンを繰り返す。
 幼児期に出来た思考のパターンは身体に刷り込まれ、大人になっても変化させるのは大変な努力が必要になる。心は大人になっても完全に親にコントロールされ続け、親の、心からの愛情を求め続け、そして抜け出すことの出来ない長いトンネルの中で苦しみ続ける。
 
 私の場合は、家庭機能不全に育った子供だ。不眠、夜になれば思考回路の中に、牙が生えたナメクジがはい回り、私を罵り続け、不安と恐怖感で朝まで一睡も出来ない。父親に会う前は、冷や汗が吹き出し呼吸困難になり、攻撃される前に必ず攻撃を仕掛ける自分。
 親に会った後は、激情を押さえることが出来ず、私の大事な人たちもそして自分自身も傷つけずにいられなかった。押さえることの出来ない怒り、突き上げる苦しみ、自分自身の存在を消したかった。自分を傷つけたかった。どうしてそうなるのか、私にはわからなかった。私は自分が狂っているのかと思った。そしてある一冊の本との出会いがなければ、私は救われなかった。

 
サイン
 

 
 

「犬と私」 No.14 告白2

 一年半前、私は両親との問題でボロボロだった。「二年前のある一件から」両親と私との関係はますます悪い方向に向かっていった。私は何とか親を理解しようとしていた。親はいつか変わってくれる、そう信じていた。私の心は、親の愛情にすがりつこうとしていた。
 
 身体検査で内蔵にポリープが見つかった。手術で一泊入院のはずが、医者の麻酔ミスで髄膜に穴が開き髄液が漏れ、私は二週間寝たきりになってしまった。私は両親が心配しているに違いないと信じていた。入院が延びた事を実家に連絡しようと、何とか電話口にたどり着いた。しかし受話器の向こうでは、アクシデントの理由も聞かず、母は冷たく私を切り捨て、父は私を罵倒し続けた。
 私は予想外の反応にショックを受け、混乱した。親にとって、寝たきりの私も「どうしようもないわがままな娘」でしかなかった。自分たちの価値観と違い、言うとおりにならない娘は「悪そのもの」だった。医者にはいつ治るのか分からないと言われた。不安の中で、夜、病院のベットで天井の模様を見つめながら、自分の「家族」を考えた。私の心は、氷った。この経験を境に、私は変わった。そして「家族」という概念がすべて崩れ去っていくのを感じた。

 


 
 無事退院したある日、本屋で一冊の文庫本に目が留まった。紫色の表紙、スーザン・フォワード著書。題名は、ここでは伏せておきたい。私は、こわくて手に取ることが出来なかった。でも、引き寄せられるようにまた別の本屋でその本に出会った。その本を手に取り、読んだ。そこには、私の家族、私の姿、私の心があった。店内だったが涙が止まらなかった。
 その後、この本は私のバイブルになっている。自分が「ACである」事が分かって、私は救われた。私がこうなっているのには原因があると分かったから。自分が狂っているのではないと分かったから。一歩ずつ、ゆっくりと、勇気を持って、もう一度苦しみのトンネルを再現し、そこを通り抜けることが出来れば、自分の努力次第で、この底なしの沼地から抜け出せるかもしれないと分かったから。

 
サイン
 
 

 
 

「犬と私」 No.15 告白3

 「幼児マキコ」は大人「富本牧子」の心の奥にじーっと身を隠している。その姿は6才の頃の私のままだ。彼女は癒されない限り成長することが出来ない。これは私がしなければならない仕事だ。“今の私が、【完全に安全な環境】で幼児マキコを癒し、その精神を、『理由もない悪夢』に怯えることなく成長させる”。
 この日記で、自分の過去を話すのは、痛みを伴う。心に刺さった、何本もの太いトゲを抜いている感覚だ。血も流れるし傷跡は痛む。でも、今、それを通過することで、少しずつ癒されてきている。
 
 3年ぐらい前から「幼児マキコ」は自分が考えていた事、感じた事を少しずつ言葉にしたくなっていった。ただ、コントロールの訓練をする以前は、全く抑制の利かない状況に陥った。
 
 あれは自分がACであると気づく前だった。今から2年前、私は母に「高幡不動の山の生活で自分が悲しかった」と初めてぶつけた。家族は誰も悪くない、ただ「私は苦しかった」その一言を初めて口にした。伝えたかった。それは言葉と言うより、叫びに近かった。何十年も抑圧された自分の心が、ついに暴走した瞬間だった。
 この一件が「高幡の山の地獄」の再来となってしまった。私が、その時言った事行動した事は、今までの理想牧子とはあまりに違っていた。「等身大の私」ではなく、「母親が求める私」を見続けていた母は、あまりのショックで壊れてしまった。
 以来、私とはこの2年会う事も、話をする事も拒否している。親の恩も分からず親の存在を拒否した親不孝者。そう、私への怒りを力にして、母は今生きている。それはあまりにも悲しい。

 


 
  別の日に、私は同じ気持ちを父にぶつけた。父は、私に謝った。“私は犠牲者だ”と。予想もしない反応だった。信じられなかった。今まで、30年余り父と戦い続けた私。家族間に何か変化が起こると、父とは必ず戦いが起こった。引っ越し、受験、就職、結婚。私が一番家族で喜び合えると思った“文化庁芸術祭新人賞受賞”のニュースもその後何ヶ月も戦い続けなければならない要因になった。それは、すべて価値観の相違から来る凄まじい戦いだった。
 戦時中貧しく苦しい生活を送った父は、私達家族を経済的に満たしてくれた。私は経済では一度も困った覚えがない。その事は本当に感謝している。だが、私の心は渇き、愛情に飢えたままだった。謝るならば、何故三十数年間一度も私の話を聞くことも、心を受け止めてくれることもしなかったのだろうと思う。
 
 私は、両親に初めて気持ちをぶつけた2年前のあの日から、第一歩を踏み出した。この日を境に、相撲の音、野球放送の音を聞いて気分が悪くなることも少しずつ消えていった。

 
サイン
 

 
 

平成17年6月6(月)

「犬と私」 No.16 闇よ、消えて無くなれ!

 私は、父のことも、母のことも、私が23才の時この世を去った祖母のことも愛している。父も母も祖母も、それぞれ彼らの方法で、充分な愛情を私に注いでくれていた。
 
 この日記は私の側から見た家族を描き、私の主観から物を語っている。私は家族の誰かを、攻撃したいわけではない。家族は誰も悪くなかった。みんなそれぞれの立場、あまりにも大きな価値観や性格の相違があっただけだ。そこに渦巻く憎悪、悲しみは家族みんなが体験したことで、誰もが被害者だ。ただ問題だったのは、一番状況がひどかったのが、私の幼児期であり、完全に閉鎖された環境の中で、精神的に誰からも守られずに孤独でいたことだった。
 今、私は現在を生きるために、そして自分の足でこの地に立つためには、私が心で感じた本当のことを、書く必要がどうしてもあった。家族間の事を外の世界に話すのがタブーであった家で、私はその禁を犯し生まれて初めて、家族のことを話している。
 
 今でも、心から理解し合える、話し合える、いたわり合える、家族であったならと言う夢は、正直いって消えていない。繰り返し願った夢。でも、夢を持つことはもう、辞めようと思う。それは過去の亡霊に自分が取り殺されてしまう事にもつながるから。
 
 歴史は繰り返す。この日記には登場していないが、私が会ったことのない私の祖父、祖母、そして、母、父は、家族間に生まれる負の連鎖を断ち切れなかった。ACからACへ、限りなく続く歴史。でも、私はこの、負の連鎖をここで断ち切ろうと思う。
 そうでなければ、私はこれからも周りの人に、同じ行動を起こして不幸にしてしまうから。
 
 私は、仕事上で10年間「小劇場シリーズ」でコンビを組んできた、プロデューサー佐藤正隆と昨年、入籍した。彼は、私のアンバランスな心も理解し支えてくれている。年齢も離れ、世間から見れば不思議かもしれないが、私の一番の理解者で、お互いに支え合える存在だ。彼に心から感謝している。彼は「結婚恐怖症」だった私を救い出してくれた唯一の人物だ。
 



 
 これから、私は沢山の新しい友人、知人、親戚を作ろうと思う。自分が本当に心を開けるようになれば、きっと世界は変わってくる。この日記を書き終わったら、幼児マキコが一緒に遊んだ事のある、何十年も連絡をとらなくなっていた従兄弟とも連絡を取ってみよう。小学校の恩師にも「結婚の報告」をしよう。私がACではないかと気づく一つのキッカケをくれたFさんにもメールを書こう。
 
 正隆さんと私とテオ、一緒にいっぱい楽しい思い出を作ろう!私の一番大事な世界、そう“犬や自然とのふれあい”から広がる友人達との世界を作ろう!テオの親戚とも友達とも、家族になろう!私の世界が広がっていく。心が広がっていく。叫び声や闇が消えていく。「理由のない恐怖」に脅かされない世界がそこにはきっと、生まれる。
 
 今回で、「心の闇」は最終回にしたい。今後、私は「自分の闇」について語ることはないと思う。これからは癒しの世界、体験した楽しい世界!を、たくさんたくさん書いていきたい。

THE END !!!

サイン
 
写真
「正隆さんと私とテオ、テオのファミリーバーベキュー会にて」
 

 
飾り 飾り
 
Copyright © SATOMASATAKA-OFFICE all rights reserved
本Webページの著作権は佐藤正隆事務所にあり、第三者の著作権、肖像権の使用許可を得たものもあります。
許可なく、複製、改変、無断転載、複写、リンクすることを禁止します。